桂馬のような男になりたい、のキメ台詞でおなじみガッツです。

将棋は、まず最初に「まいりました」を学ぶことから始まるゲームです。
将棋で負けることの苦しさは、指の爪のすきまに長く尖った針を差し込まれる痛みとまったく同じです。
将棋を覚えたての子供にとって、完全に勝負が決まる前から自分の負けを認めるのはかなり難しいことですが、
そこから始まる美しさが、プロ棋士たちがまとっているあの雰囲気を形作っているのです。
無数の針に刺されて、負けながら優雅になっていく文化人たち。

プロ棋士とコンピュータが将棋を指した際、決してギブアップをせず最後まで指し続けるコンピュータに対して、
将棋ファンからは憤りの声があがりました。
プロに対して失礼じゃないか、もう勝負は決まっている、という将棋ファンからの声。
それに対して将棋を知らない人々からは
「勝負を途中であきらめないのは当たり前じゃないか、何がおかしいのかわからない」
という意見が多数よせられてました。

「まいりました」とは、対戦相手へのリスペクトの上になりたつ理論。
自分の目に敗北までの手順が見えているのであれば、対戦相手にも同じ景色が見えているはずだ、という前提のもと、
あなたはミスをしないですよね、だから私は勝てないです、まいりました、と苦々しい敗北を受け入れる降参。

Philipsさんと知り合ったとき、彼は本当にひよっこでした。
それでも、将棋にかける情熱と、楽しんで覚えている姿勢がすばらしく、
自分の知っている将棋を積極的に教えていきました。

28級だった彼の棋力は、ものすごい速度で上がっていき、
将棋もどんどん洗練されたものになっていきました。

こんなスポンジのように吸収する人がいるんだ。
リスペクトとカタカナでごまかすことができないほどの強烈な尊敬が私の中に湧き上がります。
中国人と日本人という言葉の壁にはばまれて、それまで感じることができずにいたPhilipsさんの本当の頭の良さを、
81マスの中、発光するシナプスが雄弁に語ります。

そして、ついに彼の輝きが私の積み上げてきた時間を追い越すようになってきました。

将棋にささげてきた時間を燃やし尽くす夏の夕焼け。
かつてないほど大きな針が私の爪のすきまをぐりぐり広げていきます。
「まいりました」をたくさん重ねて、こんな感情を繰り返し味わって、プロ棋士たちもあの背中を獲得してきたんだな…。

遠くを見つめる私の瞳に、小さな本屋が映りました。

負けを受け入れて、成長してきた心が早口でまくしたてます。

「すいません、中国人によく効くハメ技がいっぱい載ってる将棋の本ってありますか!」
美しさからは程遠く、本屋の店員さんを困らせている私がそこにいました。

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